第十歩目
そういえば、性悪説の話をしよう。
自分が最初に性善説と性悪説どちらを信じるかと問われたのは高校の国語の授業であったと思う。
父親がわりと宗教学等に詳しくて儒教等も一通りの知識を得ている人であった為、それら自体を知ったのは子供の頃であった。
クラスの自分以外は皆性善説を信じると手を挙げた。
自分一人が性悪説に手を挙げた。
自分からしたら意外な結果であったが、随分と驚かれた。
何故と問われて答えたのは
人は生きて最初にすることは望むこと。ただ欲することしかしないから。
そんな内容を話した。
人は生まれて最初から生きることに貪欲だ。
周り等関係なく泣き叫び生きるために全てを欲する。
周りはそれに対して不快に感じ、それを表す人もいれば、赤ちゃんはそうであっていいと受容するものもいる。
だって、生きる為だもの。と納得している者もいれば、そういう空気、イメージ、漠然とした流れによってそれを受容する者もいる。
性善説を日本人が信じたがるのは、僕が思うにそういう空気だからだと思う。 優しさ、思いやりを重んじる日本人は性善説の方が良いに決まっていると決めつける。
そして、日本は教育制度もあり、平和だからだ。
教育制度の整っている日本において、それがないことに対しての考えは浮かびにくい。
性悪説というのは教育や、知識を得ることで本性としての行いに自制をかけるというものである。
教育、知識という概念がなければ、そこにはただ生きる為に欲することで、全てを破壊し自らも危ぶむことを理解できない愚かな人間しか残らないであろう。
僕はそう思う。
というか、性善説は何故人は善なるものとしているのに悪心が起きてしまうのかに対して解釈できる言葉はないのだ。 (一応本然の性、気質の性によってそれを付け加えてはいるが)
人は善なるものと信じたいという気持ちは誰にだってあるとは思う。
では、人以外の生き物はどう考える?
生きとし生きる全てのものが善なるものを初めからそなえて生まれてくると本当に言えますか?
お互いを傷つけ合い、殺しあって生きている姿にそれを感じられるかね?
人間だって科学という知識を得るまでずっと野生の中で殺し合い生きてきた生き物であるのに、人間だけが違うと何故言える?
人間は知識を得られる生物であったから特別に善なるものだと?
むしろ、知識を得られたからこそ行動を変えられたと思わない?
性善説なんて、あくまで人間至上主義、そう願いたいとする宗教観でしかないんだよ。
はい。 僕は性悪説を信じてます。っていう一方的な論です。
人は弱くて愚かな生き物だと僕は思うよ。
生きることに貪欲で愚かで汚い。 だからこそ自分を正そうともがいて、苦しんで生きてる。
そんな人間が美しくて、面白くて、愛しく感じるもんじゃないかな?